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温故知新インタビュー

番外編 山田火砂子先生

ご略歴

  • 本名:山田久子

  • 女性バンド「ウエスタン・ローズ」の一員として活動

  • 舞台女優となり現代ぷろだくしょんへ

  • 先代取締役である山田典吾の妻

  • 1996年 アニメーション作品『エンジェルがとんだ日』初監督

  • 1998年 夫の逝去後は監督業とプロデュース業を兼務

 

はじめに

日本で初めての国家資格を取得した女性医師である荻野吟子、そのドラマチックとも言える人生は、故渡辺淳一によって1970年「花埋み」として小説化されました。しかし、映画監督の山田火砂子先生は、脚色された小説の内容に納得できないと唱えます。今回、真の荻野吟子像に迫るべく、その生涯を映画化する山田先生にお話を伺いました。(2019/1/10 日本女医会会議室)


山田先生が映画監督になられたきっかけを教えてください

再婚した夫が映画監督で、手伝いをしながら監督業を覚えました。初めて映画制作に関わったのは「太陽の詩」1)でした。映画を作るのは難しくありませんが、売るのはとても大変です。

1)1975年公開。広島県呉市広町の養護学級を舞台に、はにわ作品を通して自立の道を求める教師・生徒・卒業生を描いたドキュメンタリー。


映画のタイトルを教えてください

「一粒の麦〜荻野吟子の生涯〜」です。「一粒の麦」2)は日本で最初に医師の資格を取った女性である荻野吟子にたとえて、聖書から引用しました。

2)イエス・キリスト聖書『ヨハネによる福音書』12章24節より:「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」麦の粒が地に蒔かれなければ、一粒の麦は一粒のままである。しかし、一粒の麦が地に蒔かれて、それから芽がでて、穂を出すならば、新しい実がたくさん結ばれるのです。


荻野吟子の生涯を描こうと思われたのは何故ですか

施設「滝野川学園」を開設した石井亮一の夫人、筆子の半生を描いた作品「筆子・その愛」3)で、亮一と親しかった荻野吟子を取り上げたいと思いました。しかし、偉大な人物である吟子を脇役としては描くことが出来ず、一旦は断念しました。その時の思いが今回実を結ぶ結果となりました。

3)「筆子・その愛-天使のピアノ-」現代ぷろだくしょん、2007年公開。常盤貴子が筆子を演じた。筆子は津田梅子とともに留学し、日本の女子教育に熱意を注いだ。滝野川学園は1897年に聖三一孤女学院から改名した日本最初の知的障害者福祉施設。天皇皇后両陛下が何度も訪問されている。


山田先生が考える荻野吟子像について教えてください

最後まで品と慈愛のある人物であったと考えています。石井亮一は1891年の濃尾大震災で親を失い孤児となった少女が人身売買されていると知り、孤児の救済4)を行うようになりました。この時孤児の半分を預かったのが荻野吟子であり、北海道に移り住んでから5)も寄付を送っていたようです。

4)亮一は被災地から孤女を引き取り、聖三一孤女学院を創設した。この孤女の中に白痴がいたことから、滝野川学園を設立することとなった。

5)吟子は13歳下の再婚相手、志方之善が北海道にキリスト教徒の理想郷を作るために移住したため、1896〜1908年北海道で生活した。


この映画を通してどんなメッセージを届けたいですか

日本は未だに戦後を引きずっており、明治はまだ生きていると思います。現在も男女は平等とは言いがたく、女性の地位を高めてほしいですね。いい映画にしますので、女性だけでなく男性にも見てほしいです。最近映画館に足を運ぶのは高齢者ばかりになってきていますので、若い世代にも足を運んでほしいです。


インタビューを終えて。

山田監督は1932年生まれとは思えないほどエネルギーに満ち溢れた素敵な先生でした。女性を通して戦争反対と障害児を2大テーマとして描いてきた山田先生がどんな荻野吟子像を描くのか、映画の公開が待ちきれません。戦後74年を迎え、平成から新しい年号に変わる2019年の日本で、私たちは何を変えなければならないのか、を考えるきっかけになるはずです。公益社団法人日本女医会は「一粒の麦-荻野吟子の生涯-」を応援いたします。


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