温故知新インタビュー

更新日:10月5日

第3回 石原幸子先生

ご略歴

  • 1948年 東京女子医科大学予科入学

  • 1951年 東京女子医科大学本科入学

  • 1955年 東京女子医科大学卒業

  • 1956年 東京女子医科大学第一外科入局

  • 1965年 トルコ共和国国立エーゲ大学心臓外科助手

  • 1967年 東京女子医科大学附属第二病院小児科入局

  • 1969年 石原医院開業

  • 1985年 日本女医会常任理事

  • 1997年〜2006年 日本女医会副会長

  • 2001年 練馬区社会福祉功労賞

  • 2002年 東京女子医科大学附属第二病院小児科同門会奨励賞

  • 2016年 日本女医会吉岡弥生賞受賞

 

2019/8/12 軽井沢の別荘でお話をうかがいました。


日本女医会入会されたきっかけを教えてください。

日本女医会には卒業と同時に入会しました。当時は女子医大を卒業すると当然のように勧誘されて、同窓会である至誠会と日本女医会の両方に入会して居りました。東京女子医大は私学だったので予科2年、本科4年、インターン1年の計7年の卒業でした。1944年に「日本女医会誌」第118号を発行したのちは、戦争による物資の不足で紙が手に入らなくなり、1954年まで活動休止となりました。1947年11月〜1951年8月の間、吉岡彌生先生はRed purge(レッドパージ)1)のために公職を追放されて居られましたが、翌1952年3月に女子医専から世界で唯一残る女子医学校に昇格した東京女子医科大学の学頭(理事長)に就任されました。しかし日本女医会の活動再開を目前にした1954年8月に軽井沢の別荘で倒れられたのですが、1955年5月に戦後初めての日本女医会総会が開催された折会長に就任されました。

1)共産党員やその同調者を職場、特に公職から追放すること。日本では1950年6月から、連合国軍総司令部(General Headquarters:GHQ)の指示によって行なわれ、20万人以上が追放された。赤狩り。


日本女医会で活動されるようになったのはいつからですか。

私が40歳の時に夫がトルコの国立エーゲ大学に留学したので、二人の子供を連れて一緒に留学しました。夫はエーゲ大学で心臓の手術の指導をしていたので、私も一緒に手術室に入って手伝いました。2年後に夫より1年早く帰国してから女医会に出席することが多くなり、1982年に女子医大の先輩である三神美和先生が会長の時に理事になりました。三神先生は人の話を聞かれた時は、よく考えてから判断する方でした。久保