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温故知新インタビュー

第2回 野崎京子先生

ご略歴

  • 1960年 東京教育大学理学部入学、中退

  • 1966/3 京都大学医学部卒業

  • 1966/7~1967/6 北野病院麻酔科勤務

  • 1967/10~1968/9 国立京都病院麻酔科勤務

  • 1968/10~1972/3 大阪赤十字病院麻酔科勤務

  • 1972/4~1996/12 住友病院麻酔科勤務(麻酔科主任部長、中央手術室部長)

  • 1997/3 野崎クリニック(麻酔科、心療内科、精神科)開業

  • 2006年 日本女医会大阪支部連合会会長

  • 2013年 日本女医会大阪支部長

  • 2016/5 日本女医会荻野吟子賞受賞

  • 大阪府女医会評議員、大阪府内科医会顧問、豊中市女医会会長も兼務している

 

2019/2/24 ホテルグランヴィア大阪でお話を聞きました。


日本女医会と関わるようになったきっかけを教えてください。

関西医大の皮膚科の教授だった大原一枝先生1)が声をかけてくださって、1989年5月に日本女医会に入会しました。他にも、女性が女房役ではなく責任を持って指導者として働くことを学ぶことが出来る、というのも入会したいと考えた理由の一つです。勤務医時代は忙しくて日本女医会の行事には出席していませんでしたが、1997年に開業してから少しずつ出席するようになり、川田喜代子先生2)に誘われて、日本女医会の仕事をするようになりました。私自身も開業しても研究活動を続けたい気持ちがあり、大きな組織に所属して活動したいと考えました。

1)現関西医科大学卒業、同大学皮膚科元教授。教授退官に当たり同窓会に寄付された基金で大原賞が設立され、首席卒業生に贈呈されている。1959~1987年の間に計18年間日本女医会理事を務めた。2000年に日本女医会吉岡彌生賞受賞。

2)現関西医科大学卒業後、耳鼻咽喉科を専攻。女性として初めての大阪市浪速区医師会理事をはじめ、大阪府女医会会長、日本女医会理事(1991~2002年)を務めた。2008年に日本女医会吉岡彌生賞受賞。


東京教育大学理学部から京都大学医学部に進路を変えられたのはなぜですか。

母が東京女子高等師範学校3)を卒業して教育者をしていたので、子供にも教育者の道を歩ませたかったようです。妹も教師になりました。私は東京教育大学4) に入学しましたが、途中で教育者の道に進むことに行き詰まってしまい、弟に障害があったこともあって医学部に進むことを決意しました。

3)1875(明治8)年に、東京女子師範学校が日本初の官立女子高等教育機関として発足。以後、1885年に東京師範学校女子部(翌年師範学校令により高等師範学校女子部)、1890年に女子高等師範学校(1908年から東京女子高等師範学校)、1949(昭和24)年にお茶の水女子大学となって現在に至る。

4)東京都文京区に本部を置いていた日本の国立大学。1949年に設置され、 1978年に閉学し、現在の筑波大学の母体となった。


日本女医会に入会して、最も記憶に残っていることはなんですか。

京都大学医学部には女性の教授や管理職がいなかったので、日本女医会に入会して他大学には女性教授がいることを知ってとても驚きました。また、杉本睦子先生5)に、東京女子医科大学では女子学生が解剖学の実習でご遺体をホルマリンから引き上げて準備をしたという話を聞いて、京都大学では男性が肉体労働をしてくれて、女性は何ひとつしませんでしたので驚きました。大阪赤十字病院に赴任してからは大阪に引っ越したのですが、大阪の方が女性医師は働きやすく、関西医科大学6)や大阪市立大学医学部には女性の管理職がいることが分かりました。

5)東京女子医科大学を卒業、東京慈恵会医科大学にて眼科研修、その後夫の故郷大阪に移住。東京女子医科大学同窓会至誠会理事、大阪府女医会会長。

6)1928年に大阪女子高等医学専門学校として創立、1952年大阪女子医科大学と改名、1954年関西医科大学となって男女共学になった。


大阪府女医会の役員もされていますが、日本女医会大阪支部との棲み分けについてどうお考えですか。

日本女医会大阪支部の地域での存在意義に関しては、悩むことが多いのも事実です。大阪府女医会は大阪府医師会の傘下となっていて、医師会活動を活発に行っています。一方、日本女医会本体は伝統のある全国組織ですので、地域を越えたつながりを築くことが出来ます。また、日本女医会は国際女医会にも加盟しており、世界とも繋がることができます。グローバルな活動ができる組織、という強みを生かして活動を継続したいと考えています。


女性医師の働き方について、先生のご経験とお考えをお聞かせください。

私が子育てをしていた頃は時代が時代だったので、鎌倉の実家からたまに親が手伝いに来てくれていました。それでも、不自由な環境で子供4人を育てたので、本当の意味では自分の人生を全うできなかったという思いがあります。女性を育てる社会が育っていないので、女性の人生はどうしても家庭環境に左右されてしまいます。後輩には本人の能力や努力で納得できる仕事をしてほしいと思っていますので、私はそれをサポートしていけるよう活動しています。


最後に野崎先生から日本女医会の後輩に伝えたいことをお聞かせください。

医師免許を取ってからも多くの差別を乗り越えてきた先達女性医師の歴史、117年にわたる日本女医会の素晴らしい伝統を知った上で、医師としての使命を果たしてほしい。後輩女性医師のためにも、女性医師が男性医師と平等に扱われるよう、地域を越えて協力してほしい。


インタビューを終えて。

東京教育大学、京都大学に入学した秀才の野崎先生で、ちょっと近寄りがたい感じがしていましたが、後輩思いの暖かな一面を見せていただきました。現在でも子育てをしながら医師の職業を全うするのは大変ですが、野崎先生が子育てをされた頃はもっともっと大変だったに違いありません。果たせなかった思いを後輩女性医師に託して、サポートを続けている野崎先生の姿に、私たちの使命を再確認した気が致しました。


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