神経内科の診療・研究・教育とともに
平成9年度に「パーキンソン病におけるL-dopaおよびその代謝物の血中動態と眼球運動異常の関連」という研究課題で学術研究助成をいただいた山本纊子です。
私は、昭和44年に名古屋大学医学部を卒業し、現在のようにCTやMRIなどの画像ツールのない時代に周りの人たちから神経内科は「分からない、治らない」と揶揄されながら、その推理的な面白さに惹かれて母校の第1内科第4研究室(現神経内科)に入局しました。
昭和49年につれあいが米国オハイオ州の病院で脳神経外科のレジデントとなったため、それまで行っていた癌性ニューロパチーの研究を取りあえずまとめて、1歳4ヶ月の長女を連れて渡米しました。ECFMGのライセンスを持っていましたので、つれあいのボスが神経内科のレジデントの就職口を毎年薦めてくださいましたが、長女が3歳になるまでは専業主婦と決めてアメリカの主婦生活を楽しみました。その後、1年半は外来診療、レジデント教育の一部に参加してアメリカの卒後教育や医療の実態を経験し、昭和51年9月に帰国しました。
古巣の研究室に戻り、「1リットルの涙」の少女の出会いとなった脊髄小脳変性症の眼球運動解析に邁進し、運動失調の改善効果が注目されていたthyrotropin releasing hormone(TRH)の効果を眼球運動解析で明らかにし、Lancetに発表しました。この仕事は、TRHが脊髄小脳変性症治療薬として申請される時に有効性の根拠の1つとなり、ヒルトニンという名称で上市され、一時的でも改善をもたらす治療薬の開発に貢献できたことは大きな喜びでした。
昭和55年に「脊髄小脳変性症の異常眼球運動の解析とTRHの影響」の研究を終え、学位論文として提出の後、名古屋保健衛生大学(現藤田保健衛生大学)に赴任し、診療、教育に追われることとなりました。大学を創始された藤田啓介総長は、神経内科の重要性を認識され、昭和59年に神経内科診療科を設置、63年に今後は女性医師が増加するのでそのモデルになるようにとのメッセージとともに私を初代教授に任命され、千葉大学に次いで神経内科講座が開設されました。その後は年平均2人の入局者を迎え、神経内科ベッド70床と近隣の7公的病院の神経内科を維持し、毎年数人の学位論文を提出する非常に多忙な時期となり、学術研究助成をいただいた時には激励いただいたと感じた次第です。
大学付属の研究所に各種機器が整備されて研究し易い環境でしたが、当時取り組んでいたL-dopaおよびその代謝物の測定に高額のランニングコストが必要で、助成費はその一部に当てさせて頂き、その成果は日本神経学会総会や学会誌に発表し、共同研究をしていた大学院生の学位論文の一部にもなりました。
定年に感じた実感と喜び。病院長としてますます患者さんに学ぶ日々
第一教育病院神経内科教授として多忙かつ充実した日々で、定年を迎えることと思っておりましたが、突然、名古屋中心部にある約500床の第二教育病院院長をとの打診がありました。既に院長経験のあったつれあいに相談したところ、重責ではあるが、別の視点から見る良い機会と薦められ、加えてその地区には神経内科患者さんが多く、定常的な診療の必要性を認識しておりましたので、神経内科講座開設を要望してお引き受けしました。早速、中日新聞に女性大学病院院長誕生と大きな記事が出て驚愕しましたが、出身大学の先輩から御祝いの言葉が多数寄せられ、この病院がかつては母校名古屋大学にとって重要な関連病院であったことを知りました。
この病院で電子カルテの導入と最新のバージョン5の病院機能評価を取得し、DPC導入の道筋をつけて65歳を迎え、平成21年3月に退任致しました。定年は、本当に大仕事を終えたという実感と喜びがあり、くじけそうになる患者さんを「一緒に定年まで頑張りましょう。」と励ましてきたことは間違いではなかったと思いました。
現在は212床の一般と療養型混合の病院の院長として目下、医師、看護師、介護士の基礎知識の充実とそれに基づいた実技の向上の教育を行い、今後、増加する高齢期慢性患者さんの診療向上に努力しているところです。幸い、近隣の医師から外来患者紹介が多数あり、病気診断の推理的楽しみも味わいつつ、好きな診療に時間をかけられるようになって、ますます患者さんから学ぶことが多くなっています。
少し先輩のアドバイスとして、若いうちは時間に追われて大変でも幅広く学ばなければなりませんが、ゆとりができた時には診療、研究、教育、何でもよいので、自分の好きなことができ、それが楽しみとなるように精進されることをお勧めします。
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